二列目中央:バーナード・リーチ氏、左:濱田庄司氏、右:河井寛次郎氏
松本民芸家具の歴史
池田三四郎(左)と柳宗悦氏(右)
昭和19年
(株)松本民芸家具の前身である中央構材工業(株)を設立。 旧陸軍航空本部用の木製格納庫を製造する。戦後はその木工技術を生かし、東京を中心に戦後の復興住宅と建具の製造を手がけてきた。
昭和23年
11月、第二回日本民芸協会全国大会が京都相国寺で開かれ、池田三四郎も出席、柳宗悦先生の説いた「美の法門」の講演を聞き感銘を受け、民芸の道にすすみ民芸家具の製作を通じて、民芸新作運動に一生を捧げることを決意。民芸家具の製作を始める。
柳宗悦の推薦で富山の安川慶一(初代富山民芸館館長)を指導者として迎える。このころより柳宗悦、毎夏松本を訪れる。同じく、濱田庄司、河井寛次郎など民芸運動の先達も幾度となく松本を訪れるようになる。
昭和24年
芹沢銈介「木工ロクロ」の指導の為松本に訪れる。
昭和25年
秩父宮妃殿下来松、池田三四郎、柳宗悦と懇談。
昭和26年
安川慶一の助力により、北陸銀行家具一式受注。混迷期なるも松本民芸家具が起動に乗り出す足がかりの年となる。
昭和27年
「松本民芸家具展」白木屋で開催。松本の家具が東京の一流デパートで展覧された第一回目。その際出展した、英国風バタフライ卓とスピンドルチェアのセット(松本民芸家具初の大作)を棟方志功が買い求める。
製作指導をするバーナード・リーチ氏
昭和28年
このころよりバーナード・リーチが幾度となく来松され、ウインザーチェアに代表される英国家具の製作指導をされ、今日の松本ウインザーチェアの基礎を築いた。
昭和31年
第十回全国民芸大会にて、松本民芸家具のラッシ編み椅子の一連の仕事に対し、故池田キクエ夫人に民芸大賞が送られた。このラッシ編み椅子は今日でも当社の椅子のレパートリーの中で他社の真似のできない特色ある分野を築いている。
昭和32年
松本民芸家具の販売会社として(株)中央民芸を設立。同年、松本民芸家具創業20周年を記念して高島屋で従来の製品から500種類を選んで大展示会を開催、これはそれまでの家具業界では例のなかった事である。
加えて同年、ロックフェラー三世より直接注文をうけ、ニューヨークのロックフェラーセンターに弊社ラッシ椅子数点を納品した。それ以後、現在にいたるまで高島屋を中心に全国で展示会を多数開催。
昭和36年
大恩ある柳宗悦先生逝去される。
昭和39年
大原総一郎(当時の日本民芸協会会長、倉敷レーヨン社長)の依頼をうけ、北海道民芸木工(株)(現 北海道民芸家具を経て飛騨産業(株))の設立に協力、池田三四郎同社取締役に就任する。機械量産による民芸家具の製造のための木工技術デザインの指導、工人の養成研修、工場の建設等の援助を行う。が、昭和43年、大原総一郎の死去を契機として、取締役を辞任、同社との関係がなくなる。
ロックフェラー氏からの追加注文
昭和44年
松本民芸生活館を松本市郊外に建設。松本民芸家具の若手職人の養成を目的とした研修棟兼民芸家具の参考館として開設、現在まで若手研修の場として使用している。
昭和47年
10年にわたるグループ生産方式の実績を基として、松本民芸家具工芸協同組合を設立。原材料の共同購入、乾燥を主たる事業とし、資材の量、質、価格の安定化につとめる。同年、当時米国副大統領であったロックフェラーより再度注文を受ける。
昭和51年
同組合が通商産業大臣より伝統的工芸品「松本家具」の指定を受ける。(全国の家具部門で第一号の指定)
昭和52年
池田満雄、(株)松本民芸家具、(株)中央民芸 代表取締役社長に就任。池田三四郎は両社代表取締役会長へ。
昭和53年
10月、長野県国体が開催されるにあわせて、昭和天皇が御来松され、御前にて当社職人2名が、伝統工芸品製作実演を披露した。また、長野身体障害者国体が開催されるにあわせて、皇太子殿下、妃殿下(現 上皇陛下、上皇后陛下)が来松され、松本民芸生活館をご拝観された。
平成2年
4月11日、松本市中町通りに、中央民芸ショールームを開店。
平成5年
信州博覧会、松本城築城400年祭に参加。
平成11年
12月15日、松本民芸家具創始者 池田三四郎 永眠。
平成13年
10月、広島福屋デパートにおいて、松本民芸家具展を開催。併催として池田三四郎収集の椅子を特別展示した「三四郎の椅子展」を開催。好評をはくす。
現在、製品バリエーションは千数百を数え、全国に多数の愛好者がいる。次世代に伝える家具として益々注目をあびている。