民芸運動の旗手たち
柳 宗悦(1899 – 1961)
民芸運動の指導者。無名の工人達が生活の用の為に造り出す雑器の中に健康で活々とした美しさを認め、それ等を民衆的工藝(略して「民藝」)と名づけ、従来顧みられなかった雑器の美と、その美の正しい性質を世に知らしめるべく、あらゆる民芸品の蒐集、各地の伝統的工芸の指導、著作活動を通じ、一大生活文化運動を推し進めた。又、その著作活動において信論と美論を結び、従来の「美醜」の二元性を離れた比類のない仏教美学を樹立する。昭和25年~30年まで松本民芸家具を指導。
柳宗悦が池田三四郎に宛てた手紙(柳デザインの茶卓の制作依頼)
バーナード・リーチ(1887 – 1979)
Bernard Leach
英国の陶芸家。1909年エッチング家として来日。以後11年に渡り日本で暮らす。白樺派の同人武者小路實竈、志賀直哉等との親交の中で同派の柳宗悦と知り含う。富本意吉とともに六代目乾山に入門。陶芸家としての道へ進む。宗悦の思想の影響を受け、作家は孤立して仕事をするのではなく、工人と協力して質と量にすぐれた製作を行わなければならないとして、浜田・河井と一緒に実践する。主に昭和28年、29年に松本民芸家具を指導し、イス、テーブル等をデザインする。
リーチのデザインスケッチ(下左:#72型リーチチェア/下右:マンティスチェア)
芹沢 銈介(1895 – 1984)
染色作家。「型絵染」の重要無形文化財保持者(人間国宝)。昭和2年、朝鮮への旅の途上、船中にて柳宗悦の論文に感動して生涯の一転機となる。沖縄の紅型に注目し確立させた「型染絵」による作品により、昭和31年に重要無形文化財保持者に認定された。また、数多くの本の装幀も手掛け、昭和41年に出版された池田三四郎著初版『松本民芸家具』は芹沢氏の装幀による。松本民芸家具に対しては数多くの家具図案をまとめた『家具図集』を寄贈されるなど助力を惜しまなかった。現在の松本民芸家具のロゴは芹沢氏のデザインである。
芹沢銈介が池田三四郎に宛てた葉書
河井 寛次郎(1890 – 1966)
京都の陶芸家。1911年(明治44年)リーチの新作展を観て感激。以来親交を結ぶ。1921年(大正10年)「李朝陶磁器展」を観て宗悦を知る。1924年浜田を介して宗悦と会い、以後親交を結ぶ。宗悦により古民芸の美に目覚め、その心を自己の製作に生かし、用と密接に結びついた器物を製作。柳、浜田とともに日本民藝美術館(現在の日本民藝館)の設立に協力する。昭和28年より松本民芸家具を指導。
河井寛次郎からの葉書
濱田 庄司(1894 – 1973)
益子の陶芸家。1910年(明治43年)16歳の時リーチの作品を観て心ひかれる。1919年(大正8年)前年知り含ったリーチを干葉県我孫子窯に訪ね、宗悦と会い以後親交を結ぶ。共に民藝運動を推進する。1920年よりリーチと共に渡英。セントアイブスにて作陶。1923年帰国。益子焼の美しさを人々に知らしめる。昭和26年より松本を訪れ、以後松本民芸家具の指導をする。
安川 慶一(1902 – 1979)
木工家。1902(明治35)年、富山県立山町に生まれる。昭和2年、京都に柳宗悦を訪ね、このときから河井、芹沢、リーチ、濱田、棟方らとの親交が始まる。昭和7年に外村吉之助と書簡を通じて民藝運動の交友を始め、昭和20年、富山民藝協会を組織する。昭和23年から松本民芸家具の製作指導に協力、北陸銀行の家具一連の仕事をプロデュースする。昭和42年には池田三四郎の依頼により、富山県八尾町の農家を移築改築し松本民芸生活館とする全体設計を担当。また、池田三四郎と共に全国を歩き、古民藝を蒐集。高島屋にて『全国古民藝展』を開催。生涯に数多くの建築設計の仕事を手掛け、高く評価されている。
棟方 志功(1903 – 1975)
棟方志功が池田三四郎に宛てた手紙(左:椅子の注文 右:卓子の注文)
梅原 龍三郎(1888 – 1986)
画家・梅原龍三郎からの卓子注文書
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